三宅町の大字名とポストコロナとコウノトリ

三宅町には、石見、三河、但馬と旧国名の大字がある。昔そちらから片道切符で大仏造りなど使役にきて住み着いたとか、但馬は但馬信助という豪族がいたとか諸説がある。因みに豊岡市の但馬ではコウノトリの復活が取り組まれ今では全国のあちこちで見られるようになっている。もしかしたら、三宅町にも似た鳥を見かけるので飛来しているのかも知れない。今、田んぼでは悪さをするジャンボタニシやタウナギの大発生で農家は昔のように劇薬も使えず困っている。これらもコウノトリは食べるらしい。豊岡市と姉妹提携して私が掲げたが「田園ミュージアム構想」の「風格(品格)ある町づくり」の一貫として取り組むことも考えられるが、こんなこと考えてるのは私だけだろう。豊岡市のコウノトリ米はプレミアムがついている。ポストコロナの若者に魅力ある地方への分散を意識したことに微力ながら取り組もう。関係人口、交流人口を増やすために!

地方議会で国政を意識することの意義

地方議会で自給率が議論されることは殆どない。地球温暖化、生物多様性、憲法が意識されることもない。また、基本的に明治時代に構築された家族法が議論されることもない。・・・。そんなことは国の仕事。しかしながら、国政を意識することの意義は次の通り、地方議会においても大きいと思料する。
1、国は国民のために政策立案するが、地方議会としては、地方の諸施策がそれら政策に沿っているか常に吟味する必要がある(※1)。
2、一方で、地方から国を動かして制度設計を行って頂くことや、地方独自の施策も必要であるが、そのためには、国の施策を熟知しておく必要がある(※2)。

三宅町で一例をあげれば、災害は議論されることはあるが、それは地球温暖化も原因と意識すれば、➀温暖化の大きな要因であるメタンガスを一番多く土中に閉じ込めているのは田んぼの土壌である、或いは、➁水田は気化熱でクーリング効果があるとなり、農業を大切にしようという機運が向上し、国に交付金措置の創設(現在ある日本型直接支払い交付金の拡充)を提案したりすることに繋がり、結果的に三宅町に裨益する。上位目標は、思想(哲学)だから、中長期的に政策がぶれることはない。

では、議論・意識されない理由は何故だろうか?理由があるとすれば、
1、そんなことは自分たちの管轄ではなく、国の仕事である。
2、その国を信頼している、若しくは自ら考える余裕(時間・能力)がない。
3、雲のうえの話である(すぐに効果が感じられない 例えば、地球温暖化防止)。

中長期的に見れば、思想がなく、持続的な発展性もなく、結果的に町は沈んでいく(衰退)。是非、国政を意識したいものである。よその地域では、大きな自然災害もあるが、その分必死で勉強し結束してどんどん進んでいる。

何よりもそのためには、三宅町の議会がリアルタイムで見れるようになることである。何が議論され、どの議員が仕事をし、首長・議員がどのような表情・言葉・語調で発言しているのか、住民が瞬時にわかるように。「住民が主役・住民との対話」は当たり前のことであるところ、その一歩としては必須であると思料(※3)。

(※1)プロジェクト実施する場合、様々な外部条件があるなか、インプット(投入)→諸活動→諸成果→目標達成→上位目標→スーパーゴールとすすめるが(PDM)、これを地方で意識するかしないかでは、中長期的な思想を持って町づくりをすすめるか否かに関わり、結果的に「町の発持続的な発展」に大きくかかわると思料する。三宅町では、個別のインプット(投入)だけに住民も町行政実施者も関心があり(複合施設もしかり)、大きな思想を感じられないのは、この上位目標までの意識が欠如しているからではないか。

(※2)私が県をあまり強調してこなかったのは、失礼な言い方をすれば、「県は国の施策を実施しているだけ」の場合も多く、目標を高く掲げるためである。端的に言えば、行政や技術的中身を熟知し、ボーっとしている国や県にどんどん制度を創らせるのである。

(※3)国会での経験からいうと、テレビが入っているときは、代議士は張り切り緊張感がありましたが(勉強し無責任な発言もない)、同一議員でもカメラが入らない委員会などでは全く覇気が違う場合がありました。また、活字になれば同じ言葉でも、語気や語調で意味が全く違うこともある。丁度裁判で、尋問は裁判長の前で行われるのが原則とする理由と同じである。よく、審議会では「自由な発言を促すため」非公開とし、その後活字で公表するのとは意味が違う。

陸の孤島とならないように

 一歩離れて三宅町をみていると、事業者(企業)にとっては、近隣町に比べて三宅町はやはり引きが弱いように感じる。どうしても田原本町とかに関心が向くようで、必死に三宅町に引き込もうと仕向ける自分がいる。そして、じわじわ沈んでいくのではないだろうか。
三宅町にいると、大きな「歯がゆさ」を感じる。その要因のひとつは、よそ者として他地方でやってきたことがこの町ではできていないこと、そして、失礼ながら、致命的なのは、他をみていないので自分たちの立ち位置が認識されていないことだ。
例えば、水利施設の水位観測やカメラによる集中監視をよその県でデモ(無償)で実施しようとしているが、この町では依然原始的。田んぼはパイプライン化や、スマートフォンによる制御、農道ターンで省力化などどんどん進化しているが、この町は数十年遅れている。失礼ながら、皆、何を考えて日々生活をしているのだろうかと思ってしまう。大きな災害がないために、結束力も弱く、思想や哲学が町づくりにないように感じる。起業マインドに乏しいのは、ある意味、逃げ場所が無いからではないか。アメリカでは、東海岸で失敗した映画会社が、ハリウッドへ移りあの拠点ができた。
 コロナで産業構造は、着実に変化している。ポストコロナは本当の意味で地方の時代がくると信じるものの一人である。現に、早くから分散型社会への転換を意識してきた投資会社もまさに好機ととらえている。但し、政治については、ボットで印象操作のできるSNSの巧者が民意を操ったりするような町であって欲しくない。、